阿弥陀陀仏と毘廬遮那仏
仏教に関する用語には、釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、毘廬遮那仏、阿弥陀仏などなど色々あり、それぞれの関係性を総合的に理解しようとするのは大変だ。そこで阿弥陀仏と毘廬遮那仏の二つに注目して、若干の整理を試みておきたい。
まず思うのは、おそらく毘廬遮那仏の方が阿弥陀仏よりも後になって有名になったであろうとことだ。本元インドの詳細はよくわからないが、三国時代の呉における支賢の漢訳『阿弥陀経』と西晋代における竺法護の漢訳『無量寿経』から遅れること、南北朝時代五世紀初頭の仏駄跋陀羅の『華厳経』漢訳であった点を一つの根拠し、そして先行していた阿弥陀仏を後になって毘廬遮那仏を通しながら位置づけた一つの象徴的結果が、真言密教系の曼陀羅における胎蔵界中台八葉院の中心・大日如来にたいする西の無量寿仏、金剛界翔磨会の中心・大日如来にたいする西の弥陀仏という表現に現われているとも考えられるわけである。
全く日本の仏像史に限定された話になるが、飛鳥の弥勒菩薩(広隆寺・中宮寺)より後の白鳳の阿弥陀三尊(法隆寺)、それらよりも後の天平の廬遮那大仏(東大寺)であるところに、存在論的解釈の史的展開経過の一側面が感じられなくもない。(毘廬遮那仏の華厳宗や真言宗よりも後になって南無阿弥陀仏の浄土宗が広まった日本宗派史の事情は、存在論的解釈の史的展開とは意味が異なる)
儒道対立と外来仏教
秦の統一(前221)は諸子百家の法家李斯を重用したことによって果たされましたが、統一後は急進的な思想統制などによって混乱が生じて短命秦朝となりました。そして前漢の時代(武帝)になりますと董仲舒の建議によって儒学が官学化され、新の王莽(『周礼』)や後漢の光武帝(文治政治)でも奨励された儒教のようです。
一方、太平道が指導した後漢末の黄巾の乱(漢の象徴色赤にたいして火に優る黄色の土。あるいは儒家赤と道家黄とたとえうるか?)には、後の政治上における対儒としての老荘思想や道教の宗教的影響力の素地を認めておけるかも知れません。
そのように考えておきますと、まさに黄巾の乱はそれまでの儒教統一体制の手詰まりを意味し、強いては隋の再統一までの三国時代、南の六朝と北の五胡十六国・北魏・東西四朝の時代に、内政的な儒道対立も併せながら外来仏教にたいする地域的な取り扱いの違いに注目する必要が見いだせることでしょう。
隋の三大法師と平安仏教
秦の統一(前221)から約八百年後の六世紀末に再統一を果たした隋の時代、三大法師と呼ばれる天台宗の智ギ、三論宗の吉蔵、地論宗の慧遠がいらっしゃったそうであります。
そんな中国の仏教情勢にたいして日本では、南都六宗に属する三論宗と地論宗(華厳宗)が先行導入され、遅れること平安初期になってから天台宗の拠点が築かれており、やがて天台宗から派生した鎌倉仏教を含めて現代日本の仏教情勢の大半を占めることになりました。
そして日本天台宗(最澄)の始まりは、同じく平安仏教である真言密教(空海)と共に、道鏡の皇位介入問題にたいする反省に基づいた桓武天皇や和気氏の要請が深く関係していたようで、法華一乗による大乗化の中で円密禅律の四宗合一の総合性を特徴に有していたと要約できましょう。
もともとの中国天台宗の場合はと言いますと、竺道生(355-434)による唯識・般若から法華・涅槃への雰囲気などに支えられながら華南側の智ギ(538-597)によって確立された感じのようです。(他方の真言宗空海は北部側で密教を学んだ)
北方真言宗と南方天台宗
平安仏教の北方真言宗と南方天台宗。比叡山が北で高野山が南であるため何やら南北関係が逆になっていると思われるかも知れないが、ここで問題とされるのは中国の北方長安の青龍寺で学んだ真言宗の空海と南方天台山で学んだ天台宗の最澄を意味する。
九世紀初頭の唐の時代に先行すること、五、六世紀の頃は南三家北七家にあり、南方では涅槃経、北方では華厳経が重要視されていた傾向にあったとも言われているらしい。
さて現在も続いている日本の鎌倉諸仏教はおおよそ比叡山天台宗の雰囲気の中から分派した感じであるが、それも隋の再統一へ向かう六世紀の中国情勢に多少なりとも依拠し、北方中国の影響を受けた空海の真言宗との違いにも注意する必要があろう。
なお朝鮮半島における天台宗は高麗時代の十一世紀末の国清寺(1097)から始まっていることから時期的にも日本とは三百年近く離れ、分派の拠点となる本家的な総合大学のような役割を担わなかったようである。(やがて教宗と禅宗の分類の中、後者禅宗に属することになった高麗天台宗でもある)
日本語のヘブライ語接触説(4) 〜『来ない』の分布〜
ではタミル人とヘブライ人の双方が日本に渡来し、一定の影響を日本語に残したという前提で話を進める。
まず中央集権体制がそれほど進んでいなかった日本であったろうことから渡来人の影響は地域的に偏っていたと考えられ、仮に中央集権が進んでいたとしても程度が縮小されながらもやはり地域的偏差が生じていたことでしょう。
問題は渡来事実の証明ではなく、渡来を事実と仮定した上での渡来結果の考察である。もし彼らが渡来して日本に影響を残したとするならば、渡来によって地域的な偏差も影響を受けたこととなり、渡来後の地域間の衝突などに何らかの渡来による地域偏差の痕跡が残されていることになろう。
一説によると長野県の諏訪大社には縄文文化の保守維持を貫いていたと思われる過去の痕跡があるらしく、かつ先行鉄器文化の痕跡もあるらしいのだが、その痕跡らにヘブライ人の渡来を結び付けて考えると、さらに色々な想定しうる事柄も見えてくるだろう。
たとえば日本書紀の巻第七に記されているところによると、西方熊襲の平定と東方蝦夷の平定の後も信濃国と越国は未だ従わずとあるが、そこに諏訪大社の保守体制の名残(諏訪大社が主導している現行保守体制ではなく、過去の諏訪神社圏における保守体制の名残)が推測されるかも知れないし、あるいは「来ない」を「きない」と発する群馬や埼玉地域の方言を後発的な文法解釈の地域的適用であったと位置付けながら、それを渡来人によって引き起こされた大昔の地域的偏差に由来するところの派生的な一つの結果として探求しうるのかも知れません。