阿弥陀陀仏と毘廬遮那仏


仏教に関する用語には、釈迦如来薬師如来弥勒菩薩、毘廬遮那仏、阿弥陀仏などなど色々あり、それぞれの関係性を総合的に理解しようとするのは大変だ。そこで阿弥陀仏と毘廬遮那仏の二つに注目して、若干の整理を試みておきたい。

まず思うのは、おそらく毘廬遮那仏の方が阿弥陀仏よりも後になって有名になったであろうとことだ。本元インドの詳細はよくわからないが、三国時代の呉における支賢の漢訳『阿弥陀経』と西晋代における竺法護の漢訳『無量寿経』から遅れること、南北朝時代五世紀初頭の仏駄跋陀羅の『華厳経』漢訳であった点を一つの根拠し、そして先行していた阿弥陀仏を後になって毘廬遮那仏を通しながら位置づけた一つの象徴的結果が、真言密教系の曼陀羅における胎蔵界中台八葉院の中心・大日如来にたいする西の無量寿仏、金剛界翔磨会の中心・大日如来にたいする西の弥陀仏という表現に現われているとも考えられるわけである。

全く日本の仏像史に限定された話になるが、飛鳥の弥勒菩薩広隆寺中宮寺)より後の白鳳の阿弥陀三尊(法隆寺)、それらよりも後の天平の廬遮那大仏(東大寺)であるところに、存在論的解釈の史的展開経過の一側面が感じられなくもない。(毘廬遮那仏の華厳宗真言宗よりも後になって南無阿弥陀仏の浄土宗が広まった日本宗派史の事情は、存在論的解釈の史的展開とは意味が異なる)