古代帝国主義 〜アッシリア ペルシャ マケドニア ローマ〜
古代帝国主義的拡張進出の推移は、おおよそアッシリア、ペルシャ、マケドニア、ローマで、ゲルマン人の大移動による西ローマ帝国の滅亡によって終わった。
アッシリア、ペルシャ、マケドニアまでは着実に領土の拡張を行った感じだが、アレクサンダー大王のマケドニアの場合は一代限りで分立化し、ローマ帝国の拡張の場合は広い範囲に及んだとは言え、しかし東側のペルシャ地域までは及ばず、アッシリア、ペルシャ、アレクサンダー大王と着実に広げた系統からは若干外れている点に注意を要するでしょう。
このように考えておきますと、アッシリアに帝国主義的拡張の原型を認めておけるわけでして、やがて先行していた帝国主義的中央集権にたいして新たな周辺近隣地域の統合体制が入り込んで行った感じとなりました(帝国主義体制の模範が行いやすい前例考慮が可能な地域の確立)。
まあ原型なるアッシリアにしましても先行バビロニア地域の歴史にたいして後発的に君臨したものと言えなくはないが、外敵侵入にたいする防衛体制から始まったであろう昇進階層化などの分業体制を帝国主義的拡大化の手引きへと進めたのは、やはりアッシリアが初めてであり、またアッシリアとした衝突した古来からのエジプト側にしましてもまだまだ防衛の意味合いが大きかったと考えられます。
そんな帝国主義的拡大化の前例地域に入り込んだアレクサンダー大王の遠征も東端はインドの西端までであり、それまでの類似性が認めうると考えられるアーリア系としてのイランとインドにたいして、後に続くそれぞれの文化の境界線の意味合いが強まったとも考えられます。
たとえば西側ペルシャのゾロアスター教はアッシリアに始まる帝国主義的拡張に参入しやすいアフラ・マズダとなったのにたいして、東側インドの阿修羅(ペルシャのアフラと同源アスラ)はアフラと同じく司法に携わりながらもインドラ帝釈天に負け続け、日本で言えば興福寺の阿修羅像のような面持ちに仕上がった感じです。
おそらくアッシリアの始めた帝国主義的拡張体制にしましても、一つにバビロニアのハンムラビ法典を新たに『剣か法か』という方法へと利用して行ったことにあったのかも知れません。