儒道対立と外来仏教


秦の統一(前221)は諸子百家の法家李斯を重用したことによって果たされましたが、統一後は急進的な思想統制などによって混乱が生じて短命秦朝となりました。そして前漢の時代(武帝)になりますと董仲舒の建議によって儒学が官学化され、新の王莽(『周礼』)や後漢光武帝文治政治)でも奨励された儒教のようです。

一方、太平道が指導した後漢末の黄巾の乱(漢の象徴色赤にたいして火に優る黄色の土。あるいは儒家赤と道家黄とたとえうるか?)には、後の政治上における対儒としての老荘思想道教の宗教的影響力の素地を認めておけるかも知れません。

そのように考えておきますと、まさに黄巾の乱はそれまでの儒教統一体制の手詰まりを意味し、強いては隋の再統一までの三国時代、南の六朝と北の五胡十六国北魏・東西四朝の時代に、内政的な儒道対立も併せながら外来仏教にたいする地域的な取り扱いの違いに注目する必要が見いだせることでしょう。