物理的空間と数学的空間 〜存在と思考〜

アインシュタイン相対性理論とは、【実空間についての物理学的領域】と【人間理性内で整合性が保たれる数学的領域】の区別を充分に自覚した上で理解できる帰結である。全く現在における相対性理論の物理学上の専門家レベルでなされている内容的妥当性については詳しくはわからないが、しかし物理学的領域と数学的領域の吟味から引き出されたであろうアインシュタインの方法については彼以前の物理学的思考とは明らかに異なった新たな視座に立脚したものだったとして、たとえ物理学理論の妥当性を度外視するとしても、なお正当に吟味する必要性がある領域に相当する。特に日本のようなキリスト教的な一神教的思考に馴れていない文化圏では、アインシュタイン相対性理論を吟味することによって日常化された文化によって馴らされている思考形態の問題点を認識するのに大いに役立つ視座を得られることになろう。



一般相対性理論の信憑性が大きな議論へと向かわせた歴史的事件の一つとは、1919年の皆既日食においてなされた、星位の太陽重力による曲がりの観測がある。それはニュートン力学による推定値よりもアインシュタインの一般相対性論から導かれる推定値の方に有利な実証結果が現れたことによる。繰り返すとおり、ここでは一般相対性理論の信憑性の是非が問題なのではなく、一般相対性理論が専門家たちによってそれなりの吟味に値するものと認められたことを漠然と信用しながら、その一般相対性理論の理論モデルが従来の理論モデルと比較されるようになったことの双方の理論モデルの相違が問題となる。

ニュートンからの推測とアインシュタインからの推測のちがいとは、簡単に言ってしまえば、空間の彎曲にあった。特に "重力場における自由落下" と "無重力場の状態" についての等価性原理がものを言う。

一般相対性理論を理解するに当たっての重要観点】――――太陽付近の重力場における『光の曲がり』とは、一般相対論では『直線』なのだ。――――

たとえば自分が光に乗ったと想定するならば、【太陽付近を通過する際、自分が重力によって引っ張られているとは感じないまま、何の変化も感じることもなく、ただ直線運動を続けているように感じる】のである。太陽付近の曲がりとは、ただ外側から見た空間の曲がり(無重力の空間と比べて)に過ぎないのであり、光自体が感じる曲がりではないと考えられているのである。

つまり【光は直線運動の象徴】であり、空間を曲げる重力場の広がりから、地球の球状的表面のような閉じた空間モデルが想定しうるのである。(簡単に言えば、光が通過しうる場所が空間で、通過しえないところは空間ではない) 我々が前方に発した光は、やがて自分の背中に届くのであり、よくよく前方を目を凝らして見れば、何やら自分の背中が見えるようなものだろう。

なるほど二次元の地球の表面の場合は、それを包む三次元空間の広がりからその外観を確認できる。しかし一般相対論はそうした三次元空間からの二次元表面の観察を必要としない。つまり厳密には『重力場における空間の曲がり』なのではない。『曲がり』 とは、一次元高い三次元空間から見た二次元表面の曲がりのようなものであるが、存在論的二次元表面からすれば、三次元空間とは存在論的に見て全く意味がない広がりなのである。つまり『曲がり』とは、頭の中で勝手に存在論的に関係がない一次元高い三次元空間が想定されることによって、無重力の均一直線らしきものが基準線として設定されるようになり、その空想的な三次元の基準直線と比べて二次元表面に相当する重力場の空間が計られた結果とも言えるものであろう。



さて我々が学んだ初等幾何学を思い出してみれば、それは無限な直線であるX軸、Y軸、Z軸で空間を描いていた。そして我々はニュートン力学を学んだりする訳なのだが、実証的に検証される物理学の領域については、運動や力と時間的に変化する事柄のみに馴らされ、空間についての物理学的吟味については触れられなかったのである。我々が学んだ初等幾何学とは極めて数学的領域に限定されたものであったのだが、それをずっと物理学的な存在論的領域に属するものとして考えて来たのであって、ようやく一般相対論によって自覚されるようになった訳である。

では次に『真空』について考えて見よう。我々は外部から空気を吸引排出した真空状態の容器内部を想像することができ、その内部には物が何も存在しない、ただ空間のみがあるかのようなイメージを持つことができる。その結果、初等幾何学に合わさった無限大な空間の中で、様々な物体が配置され移動していると考える世界観を無意識にも抱くようになる訳である。

しかし一般相対論の場合は、空間形態と物質形態(重力を持つ物)の相互関係を問題としたようなものなのだ。素朴な世界観では【空間内にある物質】だったのが、一般相対論で【空間と物質の競演】になった訳である。あの真空容器のように、はじめに用意された空間の中に物質が置かれたのではなく、はじめに空間と物質が同時に創られたと想定する必要を見いだしたのが、まさに一般相対論と言える。おそらく(一次元落として考えて)三次元なき二次元的表面を存在論的モデルと構築し始めることが出来たのは、神が創造したのは物質のみに限らず、空間をも同時に創造したであろうとイメージされた結果だと思われる。

実際のところ、キリスト教文化圏では、旧約聖書の創世記冒頭、『はじめに神は天と地を創造した』がそれを保証する。しかし日本の日本書紀では、『故天先成而地後定』と先に天、後に地が定まってから、遅れること天地の中で神が誕生している。つまり旧約聖書では物質や空間など存在するものすべてが神によって作られてたと考えうる見方にあるのだが、日本書紀でははじめに漠然と存在していた空間の中で神が誕生した形に留まっているのだ。

一神教の創世イメージとは遠く隔たっている日本書紀の世界観では、空間が神によって創造されたことの世界観はかなり生じにくい形となっている。そのため日本的世界観をそのまま維持するならば、一般相対論の世界的評価から聞きつけて、新たな物理学の見識として空間の曲がりを認識するのが限界であって、その空間の曲がりを構築するに至るまでの一神教存在論までには遠く理解は及ばないのである。旧約聖書が神によって創造された空間であるのにたいして、日本書紀は自然にある空間である。



本題としたいこととは、一般相対性理論を物理学領域に限定して解釈することとアインシュタインが描いていた世界観イメージも含めて解釈することには大きなちがいがある点である。

アインシュタイン旧約聖書の空間の神による創造をさらにスピノザの汎神論的世界観にまで広げて理解していたと思われる。あらゆる存在している事柄とは、すでに神によって用意されたものと前提し、その現実理解するための素地は人間の自然的な個人的思考に用意しているとは限らず、むしろ人間の自然的思考自体があらゆる存在と等しく思索されなければならない研究対象(たとえばカントやマッハの哲学)と考えられていたのだ。

もはや相対性理論とは、単に物理学の発展に貢献しただけではない。それは物理学に限らず人間が抱いてきた世界観や思考形態の仕組みを解明する領域に入り込んだことを意味し、あらゆる学問における既存理論の改革方針を示すことに寄与する事柄なのだ。特にカントの純粋理性批判スピノザの汎神論に基礎づけられて獲得したアインシュタインの解釈図式なり世界観について理解する必要があろう。