遺伝説と環境説 〜『人さまざま』〜

人間の人さまざまの性格について、二つの観点がある。それは先天的個性とする遺伝説と後天的個性とする環境説だ。

ところで古代ギリシャアリストテレス(前384-322)は事物の原因に四つの質料因、形相因、作用因、目的因をあげたようですが、ここでは人間の性格を考える上で目的因を除く三つに限定することにし、銅像でたとえておきますと、材料である銅が『質料因』であり、像の形が『形相因』、そして形の加工作用が『作用因』となります。

ただ念のためもう一つ注意を述べておきますと、質料因、形相因、作用因の三つ一組は、『現実の原因』と言うよりかは現実を解釈するにあたっての人間の『思考形式』と考えてもらった方がよいかも知れません。



さて人さまざまの個性的性格について遺伝説と環境説に分かれるのは、現実解釈するにあたっての思考形式の取り方によります。遺伝説は質料の相違に求めるのにたいして、環境説は作用因による形相の相違に求めているわけです。

そこでアリストテレスの思考形式の適用を見てますと、奴隷については遺伝説を採用しているようであります。『政治学』第一巻・第五章の最後の一節を引用しますと『自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことであり、正しいことでもある』と主張されています。

いやはや現代においてはパワハラ発言の一種と言われかねない文言と思われますが、当時のインテリ階級にとっては見事にプラトンの『国家論』の分業論と融合させた帰結と、重宝し合っていたことでしょう。おそらく奴隷階級においても『おまえら、ふざけたこと、言うな!』と暴れ出した勢力がいれば、逆に大人しく従っている振りをすることによって暴動奴隷よりかは大切にしてもらうことにシメシメ感が身についた勢力など、色々といたと思われます。

もう少し補足しておきますと、たとえ同じ階級分業だとにしても、分業論自体が浸透しているか浸透していないかで大きく社会的内実は異なります。つまりアリストテレスは遺伝説を浸透させることによって、新たなインテリ階級の君臨を助ける道具を与えたことになったと言えます。

もはや今日では心理学的発展によって奴隷遺伝説は排除されたわけですが、しかし奴隷遺伝説が浸透していたことによって生じていた『知識作用の社会学』についても心理学者たちや社会学者たちのみなさんはきちんと検証し、今日の社会へ与えている現代心理学自体の知識作用についても公表して行く必要でありました。

まあ、過ぎたことは大目に見てやることにして、アリストテレスのちょっと後輩のテオプラストス(前371-287)は『ギリシャ本土が同一気候で受ける教育も同じなのに、どうしてギリシャ人の気質が同じでないのか不思議である』と、『人それぞれ』の冒頭で記している。つまりアリストテレスといい、テオプラストスといい、ほとんど後天的な環境の影響について知らずにいたため、遺伝説や努力の結果として考える傾向にあったと言えよう。

やがてヒポクラテス(前460-375)の四体液病理説からは紀元後のガレノス(129-199)の四体液説に受け継がれ、広く遺伝説の雰囲気が浸透していたものと考えておけます。また当然なことではありますが、そこには後天的な環境説への関心は、ほとんど進められなかったことを意味します。



そんな世界観の状況下で、徐々に性格の環境説が大きく顔を出してきたのは、『社会に関する新見解』1813 のイギリスのオーウェンあたりかも知れません。その内容は素朴ではありましたが、イギリスではロックの『タブラ・ラサ (白紙)』から形成論的な思考が働き始め、それが性格形成論にも適用され始めたかのように思われます。他方の大陸側であるデカルト合理主義の場合は、手持ちの素材から論理的に新たな帰結を引き出す方法に集中していたのにたいして、イギリス側の経験主義は『タブラ・ラサ』の考察から新たに形成論的に素材を扱う方法を身に付けたものと言えます。

なるほど、はじめのうちはオーウェンのように教育格差や知識差を性格形成に重ねて考えていたようなものだったのでしょう。しかし同様の教育体制の中にありながら各生徒たちに多様性が生じていることについても充分に吟味しなければなりませんから、問題は遺伝説と環境説を包含した解釈図式の行方に求められます。



まず第一の問題は『同じ環境において相違が生じているから、遺伝による個性である』とする考え方には、我々が環境について全知ではない点が考慮されないまま排除されています。つまり『同じ環境』という判断自体が大まか過ぎる曖昧なものであるにも拘わらず、それを飛び越えて遺伝説へと偏り、環境説の新たな可能性を知らぬまま排除しています。

ただし一方で環境説を強調することによっても遺伝説についての新たな意見を排除しようとする目論見が生じていると言えましょう。しかし『理論主張の再帰性』を考えますと、遺伝説者とは自らについても『遺伝説に偏る思考能力が遺伝した人物である』と言わねばならず、かつ環境説者については『遺伝説がわからない思考が遺伝してしまった人々』と判断したがっていると揶揄されても仕方がないでしょう。逆に環境説者は自らの知識形成が環境に左右されて収集して来た点に基づくのであり、遺伝説者たちについても同様に観察する立場にあるわけです。

つまり『遺伝説か?環境説か?』の問題は決して心理学的内容に限定して論証合戦する必要はなく、現に議論をしている遺伝説者と環境説者にたいしても当てはめてみれば、一定の新しい視座が得られるでしょう。これも一種の心理学者という『現実』と心理学者が抱いている『現実観』という『現実と現実観のハウリング』として考察する方法に含まれます。



ともあれ、オーウェンのあたりから環境説の性格形成論が強まり始めたとしても、まだまだオーウェンの理論には同様の教育下で様々な生徒がいることの多様性については充分な見解は示されていません。そこでフロント理論から離反したユングが記した『タイプ論』1921 によって新たな多様性についての詳細化が進んだと言えるかも知れませんが、ただしユングは環境説から離れてアリストテレスやテオプラストスのような遺伝説の立場に寄っています。


『同じ母親から生まれた二人の子供が、母親の根本態度には少しも変化が認められないのに、早くからぜんぜん正反対のタイプを示すこともある。………ほとんど測り知られぬと言ってよい両親の影響の重要性を過小評価するつもりは毛頭ないが、この場合の決定的要因は子供の生まれつきの素質の中に求めるべきと結論せざるを得ない。』(第十章・序論)


全く後天的な環境の影響を具体的に示すには、時代的に相当困難な学的状況だったと言えます。概要だけを述べますが、後天的環境の影響を明らかにしていくキーワードは、ユングの言う『根本態度 Einstellung』や『統覚 Appeirzeption』、それにフッサールの『指向性 intention』に加えておきます。

それは性格の多様性を、知識形態もしくは世界観形態の現れと見ることを意味し、従来の漠然とした知識形態によって命名されていた各性格についての語彙に批判を加えます。そう、性格についての命名自体が実はある特定の性格を持つ人間が行った帰結であって、もっとも様々な知識形態の人々が相互作用した結果から漠然と個人の性格を命名してきた実態を考察しなければならないのです。