ピラミッドと哲学 〜『歴史に口なし』〜

イソップ物語の『アリとキリギリス』の結末はキリギリスが飢え死にするようですが、その後『私たちは夏の間働いていた時、アナタたちに笑われていたアリです。今さら何のご用ですか?』と言った感じでキリギリスを反省させて仲直りのパターンに改変されたりもしたようです。

特にルーズベルトニューディール政策が始められていた1934年のアメリカでは、ディズニー制作によって蟻さんが食べ物を分けてあげる代わりにキリギリスさんがヴァイオリンの演奏をするという結末に改変されたものもあったようです。



ところで『アリとキリギリス』の物語とは『井の中の喧嘩』であります。しかもそれは『歴史観なき自我の目覚め』に過ぎません。

ちょっと考えてみてください。物語で共演したアリさんにもキリギリスさんにも親がいて先祖がいたはずです。一体、先祖のアリさんとキリギリスさんがどのように生活していたのかが、全く知らされていなかった点が明らかになるでしょう。

全く先祖のキリギリスさんたちは、どのように冬を越して来たのでしょうか?(先祖のキリギリスがいなければ、物語のキリギリスもいなかったであろう。)

たぶん物語のキリギリスさん世代から自分の演奏上手に舞い上がってしまったために食べ物が分け与えられてきた先祖たちの分業意識を忘れ、働き蟻さんの仕事を見下し始めたのであり、反対の蟻さんの側も怒ってしまい、『私たちは夏の間働いていた時、アナタたちに笑われていたアリです。今さら何のご用ですか?』と言わざるおえなくなったのでありましょう。

そうです。ギリシャでは自分がしていることの貢献を一方的に宣伝しながら他を見下し、自らの立場を持ち上げ始めた文化の一つだったと言えます。

紀元前五世紀のギリシャヘロドトスは、ピラミッドが奴隷の強制労働によるものと考えたようですが、それは当時のギリシャ文化の世界観を通して判断された帰結であって、その後の近代西欧文化に受け継がれながら世界中に広まったものなのでしょう。

現在から見ればヘロドトスの時代はピラミッド時代と同じ古代なのでしょうが、そもそもヘロドトスの時代から見ればエジプトのピラミッド時代自体がよくわからない古代だったのであり、『古代人に口なし』に基づいた判断だったのです。

まあそんわけで思うことなのですが、古代エーゲ海周辺で起こった自然哲学が衣食住が足りた中での新たな余暇的活動であったとするならば、古代エジプトのピラミッドも、意外と衣食住が足りて起こりえた余暇的事業だったと妄想したくなるわけであります。