金環日食に見る現実認識 〜歴史的経過と普遍的法則〜


本日は、無事に金環日食が見られて、とてもうれしかった。きっと科学者の【普遍的な法則】によるバッチリな計算が予告してくださった結果であろう。

ところで我々は、本日の金環日食の情報を、それぞれどこから得たのでありましょうか?各人はそれぞれ異なった『いつ、どこで、誰が、どのように』の経緯によって情報獲得したのでありますが、しかしその各人それぞれが金環日食の情報を獲得した細かい事情については、たとえば古く千年ほど前の時代に遡った状態から、厳密に各人の『いつ、どこで、誰が、どのように』を予言できるほどに法則利用が出来る領域にあるわけではありません。

我々がたどってゆけるのは、せいぜい伝言ゲームような伝達経緯の過去への遡りに限られ、その各経緯の『いつ、どこで、誰が、どのように』をニュートン力学のような法則利用でまとめることは到底無理なことでしょう。ニュートン力学相対性理論の法則性に合わさった金環日食の予告は【普遍的な法則】へ信頼を置こうとしますが、一方で我々各人の情報獲得の状況とは【歴史的な経過】に頼らざるおえないのです。



なるほど、おおよそ金環日食の予測可能性には広大な長きに渡る法則性が認められているわけですが、一方的でちっぽけな短き『今・ここ』の個人的な一点があります。デカルト (1596-1650) の『我思うゆえ我あり』やパスカル (1623-1662) の『考える葦』は、そうした広大な法則性にたいする『今・ここ』の一点を示そうとしたものに相当しましょう。

しかしデカルトは『我思うゆえ我あり』を発見するや否や法則性へ近づき合理主義の雰囲気に包まれてしまいました。その点パスカルは、パスカルの原理などの法則性を探求しながらも幾何学的精神と繊細な精神の区別を保っていましたが、ただし【普遍的な法則】と【歴史的経過】の区別には至っていません。それはフランスを離れ、19世紀に歴史主義が台頭し始めたドイツによって吟味されるようになった問題であります。

実際のところ、人さまざまな多様性の現実には、人それぞれの【普遍的な法則思考】と【歴史的な経過思考】の割合や融合の状況が深く関係した結果であります。時代的に見ても重宝されやすい思考割合があり、あるいは職業的セクト分野で重宝されやすい思考割合などが関係しているのであります。



まとめること、今回の金環日食の状況においては、科学的法則性もしくは歴史的な集団的話題共有が主流でありました。しかし各人が得た金環日食の予測情報についての現行科学者からの各メディアを通した社会的浸透に限らず、その科学的な知識の長き探求による充実化という歴史的経過があったことの【時空間両者を含めた全体的出来事の積み重ね】の中に、『今・ここ』という一点や『今・そこ』という広く点在した各点の歴史的経過が働いて来た状況を想起する必要性が残されています。



金環日食とは、人間に見られるために生じたわけではありません。

金環日食とは、『どのように人間が世の中を見ているのか?』を調査するために生じた出来事とも言えるのであります。