アインシュタインの『神様』 〜知識社会学的な有神論〜


マックス・ボルンへの手紙 (1926) の『神はサイコロを振らない』、 そして電信質問にたいする返答 (1929) の『スピノザの神なら信じる』より、アインシュタインのおおよその『神様』の見方が伺えます。

一方、フランスの社会学者コントは、宗教的段階、形而上学段階、実証的段階と三つの発展段階を提示しましたが、しかし彼の発展説ではアインシュタインを理解することはできないでしよう。

と言いますのも、アインシュタインの場合は宗教的神学にたいする形而上学的な【スピノザの理神論】を基礎としていましたし、実証的な仮説提議のみならず【思考実験的な仮説提議】の領域を意識していたからです。

たとえておきますと、アインシュタイン一神教的な理神論を一つの設計設備として用いながら、様々な設計図を試行錯誤した建築家と言えます。





ガウスを含めたどんな思想家が与えてくれるものよりも、ドストエフスキーは私に多くの事柄を教えてくれる』アインシュタイン





さて物理学者のアインシュタインガウスよりもドストエフスキーを強調するとは、ふと考えてみますと異様な感じもいたしますが、決していい加減な発言ではなかったと思われます。もしアインシュタイン一神教的な理神論を積極的に用いていたと前提とするならば、その理神論の用い方にたいしては、一つの道具としての自覚を充分に持っていたと考えられるからです。

一般的に我々が始めに馴染む直交座標のユークリッド幾何学にたいしては新たな曲率の非ユークリッド幾何学 (微分幾何学) などが物理学に持ち込まれたことによって一般相対性理論が進められるようになったわけですが、その数学的分野のガウスよりも文学界のドストエフスキーの方を強く推したアインシュタインの意図には深い意味が含まれていましょう。



まずは『カラマーゾフの兄弟』1880 の第五編三節に出てくる非ユークリッドのお話が特に気になるところです。

無神論の立場を示していた次男イワンは、『もし神による地球の創造を仮定するならば、我々人間に理解しうるかぎりユークリッド幾何学に合わせて地球を創造し、人間の理性もユークリッド幾何学によって解釈するしかないように創造したにちがいない』と有神論が吟味すべき事柄を示しています。そしてユークリッド幾何学にたいする疑念としての非ユークリッド幾何学にふれながら、それはイワン自身には難しい事柄として自らの不可知論の立場を示していますが、結局のところ、イワンは自らの有神論の立場を明かし、人間の解釈についての不可知論を強調した形なのです。

一般相対性理論を構想したアインシュタインからすれば、有神論の肯定とユークリッド幾何学の否定を基準前提としているわけですが、それは有神論と不可知論から見た『神はユークリッド幾何学で創造したか?』という、イワンが示唆した【ユークリッド幾何学と現実空間の吟味領域】と関心を等しくした帰結なのです。

あるいはまた、『神様は老獪だが悪意はない』というアインシュタインの有名な言葉にいたしましても、かなり近い吟味領域から派生したものと想像できます。

ひとつには、ユークリッド幾何学で色々と応用できた長き人間の歴史にたいして、実際は非ユークリッド幾何学も必要であるような世界としてあらかじめ神様が創造しておいたと、アインシュタインは考えていたと言えるのです。つまり非ユークリッド幾何学を必要としておいたのは神様の悪意ではなく老獪であるとして、ユークリッド幾何学の基準に固執している人々に訴えている表現なのです。

もっと言えば、一般相対性理論とは人間理性の素晴らしき能力の産物などではなくして、むしろ【神様がどのように世界を創造したかという関心】で生じているということ、あるいは【人間が発見していく順序を、あらかじめ神様が予想して準備しておいたもの】とアインシュタインは示唆しているわけです。



尤も『カラマーゾフの兄弟』の第五編三節と第十編六節では、フランスのヴォルテールの『神が存在しないならば、それを考案する必要がある』と仮説自覚による有神論が示されている点にも、おそらくアインシュタインの同感の思いがあったろうと思われます。


たいてい無神論者が『神が存在したとしても、不可知のゆえ必要ない』と思うのにたいして、有神論者は『神が存在しないならば、それを考案する必要がある』なのです。そして無神論者は自らの前提を根拠に『有神論者は不安を取り除くために、勝手な神様を主張している』と判断することになりますが、有神論者からすれば『無神論者は安定を保ちたいがゆえに、勝手な不必要を主張している』と見えるのであります。

アインシュタインは単に非ユークリッド幾何学に触れられている点に限らず、有神論を併せた世界観の組み換えを『カラマーゾフの兄弟』に見ていたのではなかろうか?それゆえにわざわざガウスの数学的な非ユークリッド幾何学 (ガウスは有神論的な物理学に踏み込まなかった) にたいしてドストエフスキーを比較対象に持ち出したと考えざるおえないのです。

宇宙論の研究とは、ただ宇宙を眺めたり宇宙論の話し合いだけによって進められるものではなく、人々それぞれが異なった世界観を抱いていることを吟味することによって、次第に融通性が利かない領域 (たとえばユークリッド幾何学の現実論への適応や認識論的不可避性への固執) の洞察にいたる状況を、文学作品の方法に示唆したとも思えるわけです。