自我と自己の違い

我々は各人さまざまの知識を持っています。たとえば学校で学んだもの、知り合いとの交流から学んだものなどと、色んな知識が蓄積されている訳です。

しかし『我々人間がどのように知識を持っているのか?』という問題について、他者が抱いている知識状態に限らず自分自身が抱いている知識状態についてさえも、実はよくわかっていないのです。

それはただ自分が抱いているすべての知識を書き出そうとしても、あまりにも大量過ぎて書き尽くせないといった意味ではありませんし、また体で覚えた書き出すことが出来ない知識の存在を意味しているわけでもありません。問題は、我々は自分の知識の持ち方自体を知らないままに無意識に知識を働かせている点にあります。



たとえば我々は時と場合に応じて 「29 + 63 = 92」 のような足し算を行ったとしましょう。そうした 「29 + 63 = 92」 という知識とは、たとえば九九のような多数ある暗記されたサンプルの中から一つを探し出してきた結果などではなく、足し算という演算知識を用いた結果です。つまり時と場合に応じて導き出された【 29 + 63 = 92 】という個別的知識と、それを導き出した【足し算】という算出的知識の区別について、実は我々は充分な注意を払って来ていないのです。

その顕著な影響は特に人物判断という知識に認められ、実際は無意識のまま習慣化された演算(性格を判断する図式)によって人物判断の内容を算出していながらも、ただその人物判断の内容のみを意識的な知識として重宝している状態なのです。それはまるで【 29 + 63 だから 92 である】と言った人物判断の帰結だけを収集することだけに満足してしまい、その自らが働かせている【足し算】という演算的な知識の実態については気付こうともしていないような状態なのです。

そうした足し算のような演算的知識とは【解釈図式】とか【思考形態】と呼びうるものでもあり、おおよそ哲学や形而上学が扱う問題と言えますが、それに比べ一般的な人物判断とは、無意識的な【解釈図式】を用いて算出していながら、意識的には【実証的に認められた知識】として演出される形となっています。

ですからフロイトによって広め始められた精神医学の知識しても同様でありまして、ただただ狭いお仲間同士で認め合った実証性を根拠としながら薬漬けの対応を当然の診断結果として宣伝ばかりしていないで、もっと自らが行っている思考形態についても吟味し、その批判を受け付ける窓口を用意する必要があったわけです。



こうした全般的に我々が知識を抱いている現実について、それを【知識所持の現実】と呼ぶことにしましょう。やや 「知識所持の現実」 という表現には奇妙な雰囲気も感じられますが、『社会的に働きかける知識の道具性』という側面を示すためにも、そのように呼ぶことにしたいと思います。

さて我々は知識を所持していますが、それは手や指を動かすようなことと同じことであり、外部知識を自己が操作しているのことを意味します。言い換えれば【自己】とは手や指を動かしている者であり、同時に知識を利用している者です。まさしく知識とは、指や手足と等しく 「私のもの」 という所持品であって、私自身 (自我) ではないのです。

何故、こんなことを問題にするかと言いますと、【自我】という概念が用いられることによって、【自己】に所持されている【知識】の在り方が曖昧にされて来た点に由来します。おおよそ自我心理学とは、フロイトの [超自我・自我・イド] やエリクソンアイデンティティ論に代表される理論でありますが、それらは【自己と知識所持の関係】に触れることなく、ただ漠然と知識の在処を問うこともないままに、ひたすら【自我という一個人】を評価しようとする説明のみに終始しているからです。

そもそも 「自我」 とはドイツ語の Ich (ラテン語 ego) に由来し、英語で言えば単数一人称主格の I に相当するものであります。それは二人称 you 、三人称 he she などが集まった全体社会を想定した上で主張される一人称の I を意味するものであり、そうした【社会内の一個人】として解釈することによって【知識所持の現実】を曖昧にさせる効果を秘めているわけなのです。

一方 「自己」 とは英語 self であります。 「私自身」 の意味で myself とも言いますから、意識的に自己解釈されている I の立場から、所有格 my を通して、無意識な自己 self を意味していると言えましょう。

「自我」 とは個人内の自己と知識所持の関係を見ることはなく、ただ【社会的に見て見られる各個々人の対応】を主題とする表現なのであり、一方の 「自己」 の場合は【意識もしくは知識を操っている無意識の存在】が主題とされるのであります。



そこで特にフロイトの自我論で問題となる点をあげておくならば、それは 「超自我」 の概念です。 全く 「イド」 に力の発動源を設けておきながら、「超自我」 の側にも力の発動源を設けた形になっているのですが、しかし実際の超自我とはカントが言った「実践理性の」ような理念を司る領域に位置しているに過ぎず、理性の側には全く力がないこと、そして理性を道具として用いている自己の側だけに力が発生している点を自覚する必要があるわけです。

たとえば鏡に映った化粧のノリがいい自分を見て気分が軽やかになったり、逆に化粧のノリが悪い姿を見て気分が重くなったりするのは、決して鏡の力ではありません。それは鏡を参照した自己の反応に過ぎないのと同じように、「理性」 を参照にした 「イド」 の反応に過ぎないのであって、決して 「超自我」 が力を発動させて 「イド」 を制御した訳ではないのです。

全く 「自我」 の概念は、自己と知識所持の関係を曖昧にさせながら、ひたすら個人を解釈して来てしまったのです。そして暗黙的に 「知識とは自分の人生のため役立てるもの」 というイメージを人々へ刷り込みながら、実際の人々の知識所持によって生じている社会的現実の解明を阻止してきたのです。

全く教育者たちが好んできた 「自我の発達」 とは、社会的衝突を回避できる自己工夫知識の発達のことであり、当の自我発達論は教育者たちの自己工夫に役立つ理論だった訳です。



そんな訳で現在の精神医療の状況を見れば、その心理学的な理論内容などは知れたもので、むしろ心理学理論の社会的影響を公表し始めた方がずっと精神医療の発展に貢献する状態に達しているのであります。

しかし資格認定する上層部とは、従来の原発推進派と似た人々なので、よほど困った事態が大多数に知れ渡るまでは、今までどおり学識専門家面によって自分の人生を逃げ切ることにしか頭を使わないことでしょう。

簡単にまとめますと、自我論は自らを成長させるための知識として暗示させながら、そっと自己責任の社会観を刷り込む【実践的な社会内個人】に仕上がっているのに比べ、自己論の場合はもっと知識を事実的かつ現実的に考察しようとする【存在的な宇宙内個人】にあります。