資本主義起源論(8) 〜 「自由」 による権限作り〜

前回 (7)、前々回 (6) と、ハイエクが二つの自由観に触れ消極的自由観の側を採用した点について述べてきましたが、私もそれに賛同します。私が積極的自由観を採用しない理由としましては、それぞれ個人が自由の力を出し合う場を社会と前提しながら、ただひたすら自由を物象化してゆくからです。また積極的自由観は、個々人自らの自由が持続的に社会的影響を受けてきている点を考えようともせず、ただ自らを輝かせる自己実現への発展と話をそらしている点にあります。

その積極的自由の代表作の一つには、フロムの 「自由からの逃走」1941 であります。その内容とは、おおよそドイツのナチズムを始めとするイタリアや日本などの全体主義について説明した著書であり、【個々人の自由を放棄した逃走】による漠然とした匿名なる全体への従属団結化としています。またフロム自身も積極的な【〜への自由】と消極的な【〜からの自由】の分類 (当書・第二章) に触れられていますから、イタリアのルッジェロ 「ヨーロッパ自由主義思想史」1927英訳 の影響もあったのかも知れません。さらにはバーリンの 「二つの自由概念」1958 やイギリスのクランストン 「自由」1953 よりも先行していた点にも、ちょっと注意を払っておく必要もありましょう。



そこでフロムの二つの自由の扱い方について言っておきますと、それは存在論的な心理学的考察であった点で、クランストンやバーリンの方法とは大きく異なっていました。クランストンやバーリンあるいはハイエクの場合には、二つの自由観を認識論的な思想史として扱っていたのでありして、決してフロムのような現実に広がっている二種類の自由を説明したものではなかったのです。

フロムは 「経済的政治的な束縛から自由となり、積極的な自由を手に入れることなる」 (当書・第三章) と説明していることからして、明らかに自由観の分類ではなく、各個人の自由度を解説しています。そして 「積極的な自由は全的統一的なパースナリティの自発的な行為のうちに存する」 (当書・第七章) と自己啓発論の前提を示しながら、そっと自らを自由の審査員にしてしまっています。



全く 「自由からの逃走」 Escape from Freedom というタイトルの【逃走】には、何か心理学者自身を安全地帯に確保しておきながら、外部の一般社会にたいして互いを争わせる仕組みを与えているとしか感じられないのですが、さすがは近代資本主義と市民革命の発祥地イギリスは注意深かったらしく、わざわざ 「自由の恐怖」 From of Freedom と改題したのであります。

つまりイギリスのタイトルでは【踏み出せない恐怖】の気持ちを互いに共有しようとしたのに比べて、フロムの命名は【踏み出さない逃走】と宣伝しながら心理学裁判所を作ったようなものなのです。そのため自らが告発されないようにと先手必勝を狙ってか、誰かを告発をする (いじめと似た構造である) ような雰囲気を作り、あるいは新たな後継者たちが当書を六法全書にように見立てて近所の簡易裁判官を演じるようにもなったのです。実際、当書・第五章の題目 「逃避のメカニズム」 には、そのまま自らを逃避解説者として宣伝した形跡が認められ、結果的に次世代のとぼけた心理学者たちに武器を与えたのであります。



要するに心理学的に 「積極的自由」 を語ることとは、自らを積極度の審査員として自作自演することだったのです。当時は強力な全体主義の指導者がいたため、やむおえない叙述だったと言えますが、しかし第二次世界大戦を終えた後からは、全体主義の指導者が退いたその地位権限に、そっと積極的自由の理論を支持する限定された人々と共に入り込んだ形なのです。



こうしたフロムの心理学的な積極的自由ほどではありませんが、経済学や社会学における積極的自由にも、ある種の偏狭さが潜んでいます。

積極的自由を前提する社会学理論とは、当然ながら匿名なる不特定多数の集合を対象としているわけですが、その不特定多数を積極的自由として認め始めますと、同時に【不特定多数の人々の知識状態は恒常的で自利の追求に限る】と暗黙の内に新たな承認を獲得したわけです。

それにたいしてイギリスの消極的自由は、【伝統勢力】と【自由勢力】の対比であり、保守党と自由党の二大政党制に発展しています。つまり一様な不特定多数で社会を見るのではなく、二つの選択肢 (伝統維持か現状改革か) をシミュレーションする際、それぞれの二つの勢力に社会を見るのである。つまり伝統保持の【束縛の持続】か現状改革の【束縛の解除】かの選択を二つの勢力が議論するのである。

たとえば束縛の解除を選択した場合に限っても、保守勢力から見る束縛解除の状況と改新勢力から見る束縛解除の状況とでは利害関係などによって異なった変化が生じることに注意するのです。まさにイギリスの 「自由」 とは、過去の束縛があった時代と束縛が無くなった現状を比較するだけに留まらず、双方の保守勢力と改新勢力の変化が考察されるのであって、一律不特定多数の積極的自由が発芽するのではありません。



要するに積極的自由観とは一律不特定多数として取り扱う歴史観なき社会学を目指す傾向にあり、保守改新の勢力分布を気にする消極的自由観とは異なっているわけです。

アダム・スミスの自由主義経済が認められたのも、一つには束縛廃止を危惧する保守勢力にたいして、互いが圧力を加えるという新たな束縛を示唆したことにもありましょう。もちろん利益の追求という功利主義の理念も働いてはいましたが、しかし伝統的規制が廃止された自由化においても、議論をする国民性であったがゆえに互いに牽制抑制をすることによって調和されるであろう見込みを確認し合った点も忘れてはなりません。

おそらく政府的なイギリスの自由主義とは、トーリーからホイッグに移った1830年のグレー内閣の頃だろう。フランス革命の急進性に反対していた反仏同盟より次第に穏健的に現れた、しかもブルジュア的な自由主義であったイギリスの歴史である。



再度、フロムの 「自由からの逃走」 より積極的自由観の歴史考察の仕方を読み取るため、ウェーバーの 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 と見比べておきましょう。

まずウェーバーの場合は、さほど自由観にはこだわっていませんでしたが、しかしフロムは過去の社会では積極的自由が抑圧されていたものとして歴史を解釈していきます。

実際フロムは、近代社会と比べて中世社会を【個人的自由の欠如】と説明 (第三章1) しており、歴史解説の根本前提としてフル活用しています。 そう、精神科医や心理学者にとって欠かせない商売道具、【欠如】といい概念の布教であります。おそらく【自由】の概念が話題となった近代ですから、【自由の欠如】は大発明だったと言えましょう。

彼はイタリア・ルネサンスの時代にブルクハルトの言う【第一次的絆】から脱出し、分離した個人の存在を発見したと説明しますが、決して実際の歴史的事実は 「個人の発見」 などで表現できるものではありませんでした。むしろ 「個人の発見」 という表現自体が自己実現論を暗示させたにすぎず、自己実現の指導役を確保するための心理学者の発明品だったと言った方が正しいのです。

そして宗教改革のルターとカルヴァンにおける指導者と支持者の心理学的解説を進めていますが、ここまで来るとウェーバーとの違いも明らかとなります。ウェーバーは近代資本主義へ向かった社会的状況を説明するためにプロテスタンティズムの様々な考え方を調べますが、フロムは人々の心理解説役を確保するためにプロテスタンティズムの考えを例に採用したのです。

確かに人は自分に都合がよいに解釈していくものなので、フロムのような知識形成の心理的カニズムが働いているとも言える。しかしそれはフロム自身の心理学形成を含めた、すべての人間についても説明する必要がありました。しかしフロムは誹謗中傷にならぬよう過去の部分的人物を利用して、先手必勝の心理解説の方法を人々へ振りまき、その解説方法の指導役に自らを置いたに過ぎなかったのである。

つまりウェーバーは歴史解明を埋めていくための一部として 「プロテスタンティズムの倫理」 を著したのですが、フロムの場合は心理解説の囲い込み体制を確保持続するために歴史知識を拝借したに過ぎなかったと言わざるおえません。



やはり 「自由の恐怖」 と改題したイギリスは、近代資本主義の発祥の地と言われるだけのことはありした。フロムが自由をうまく処置するよう他者の欠如を互いに解説し合う雰囲気を作りながら身内のエリート的解説役を囲い込んだのにたいして、イギリスは恐怖を共有し新たな社会参加のために議論する文化であったのでしょう。まさにその恐怖の共有意識が近代資本主義の発祥の新たな連携にも働いていたものとして、何となく感じられるわけなのです。

まあ言い過ぎた感はありますが、そこはフロムの行ったルターやカルヴァンの解説による現行社会への雰囲気作りに対抗するため、仕方がない一つの正当防衛だったと、大目にみてやってください。いずれにせよ、フロムはボッティチェリを知らずにルネサンスを解釈したのであり、リースマンの 「孤独な群衆」1950 がその穴埋めようなものだ。



これからの心理学や社会学には、ヒトラーと等しくフロムを批判すること、そしてフロムと等しくヒトラーにもならざるおえなかった人生経緯を理解することが求められるだろう。



続く