資本主義起源論(6) 〜限界効用理論とイノベーション〜

前回は後進資本主義のドイツで生じたマルクスの理論が、イギリスの社会契約論的考え方を追いやりつつ、労働者側の立場から見た資本使用者の【搾取】を示していたことについて述べてみました。しかしその労使間の【搾取】(1867?) を強調しすぎたマルクス主義の影響があったのだろうか、ほぼ同時期 (1870年代) に限界革命と呼ばれる限界効用理論がオーストリアメンガー、イギリスのジェヴォンズ、フランスのワルラスらによって提唱されたと見なされています。

特にオーストリアメンガーの場合は、労働者側に立ったマルクス主義の見解にたいしての新たな使用者側を擁護する立場として、ドイツ歴史学派のシュモラーとの方法論争 (1883) に巻き込まれた形だったと見なせます。



まさにマルクス主義の労働価値説からは【搾取】の状況に関心が向けられていた感じでありましたが、メンガーらの効用価値説からは―――意図的に対抗したわけではなかったにせよ―――不特定多数による価格決定をイメージさせる方へと関心が向けさせられたのであります。

おおよそ労働価値とは、ロックのような原始の食物採集や土地開拓による【労働と所有権】の関係から基礎づけられた考え方でありまして、現行権利 (特に所有権のこと) を人為的な実定法と見なしながら、その歴史的過程を吟味する方向へ関心を向かわせます。反対に効用価値説とは、現行権利を自然法もしくは必然的実定法と固定的に前提するのであり、その固定化された条件における経済分野に限定させた法則化へと関心を向かわせることに寄与したのです。ですからメンガーの効用価値説とシュモラーの歴史主義が対立したのも、当然だったと言えば当然であったと言えるのです。



さて私見となりますが、ロックの 「統治論二篇」 とルソーの 「不平等起源論」 は共に所有権を実定法と見なしていたものと考えます (ただしロックの場合は、他者の不足を招かないという条件で所有権を自然法としている) が、そうした所有権を実定性と見なす立場だからこそ、現行の所有権にたいして歴史的経過を主題とする議論を促すのです。しかし所有権を自然法 (もしくは必然的実定法) と見なすや否や、現実の様々な条件が異なっている立場についての社会的分布から関心を除去 (捨象) するようになり、そして同等なる一般的な匿名大多数を前提根拠とした目まぐるしく変わる現行社会の解説へと関心を向けさせるようになったのです。

つまりマルクス主義の【搾取】概念によってロックやルソーの社会契約論は忘れ去られようとしましたが、しかしメンガーらの効用価値説によって社会契約論が再び浮かび上がり、逆に今度は所有権の実定性を自然法と見なすことによって、結果的に現行階級の成立過程を吟味しようとする歴史主義からは目をそらせることになったわけです。

極論を示せば、マルクス主義の搾取理論とは資本使用階級が自ら定める賃金設定の実定性を自然と見せかけることにたいする訴えとして、その賃金設定の実定性に本来の正当なる自然賃金からの搾取を理論づけた形だったのだ。そして一方のメンガーの限界効用理論によって、逆にアダム・スミスの【見えざる手】から不特定多数による均衡を印象づけながら歴史主義的な観点を追い払い、後々の現行の賃金設定が自然なる社会的結果であるかのごとく暗示させる素地を用意したのである。

なるほど今や日本においてもメンガーの影響は大きく、それは【イノベーション】なる用語の広まりにも認められます。と言いますのも、イノベーションの発祥元であるシュンペーターの 「経済発展の理論」1911 とは、メンガーと同じくするオーストリア学派の立場にあったからです。

シュンペーターは初期にフランスの限界効用理論の発案者とされるウォレスの一般均衡理論を紹介し、その一般均衡理論から新たなイノベーション産業に向けた銀行の貸し出しに【信用創造】なるものを示唆しました。それは大衆消費意識の台頭もしくは大衆消費意識の操作への移行を意味するものでありまして、たとえるならば 「搾取に文句があるなら、銀行の信用を得て起業しろ」 の雰囲気によって社会制度の改革議論を追いやり、銀行の信用を得るには大衆消費の集客が主題とならざるおえないからです。



まさしく歴史主義を追いやる現代日本の【前向き】とはドイツ歴史主義を追いやったオーストリア学派の特質と同等であり、不特定多数 (匿名大衆) をモデルとして現状解説する日本の学的態度と美しく調和しているのです。

またオーストリア学派に付随した今日に及ぶ影響としては、フロイト精神分析もあります。精神病を名目に治療役を権威づけ、人間解釈の資本主義――― capitalism を自己キャプテン化と解して―――をこしらえたのです。そう、全人類の同意を得ず、専門家演出によって学的権威を支え始めたのです。その権威ある自作自演の理論吟味にたいして全人類を参加させないばかりか、吟味をしようとする者たちを組織ぐるみで排除無視し、軽く精神病扱いしておけば体制維持が保てるのです。

全く経済的な資本主義では労働組合による賃金交渉の領域が用意されておりますが、心理学的な人間解釈のキャプテン体制の場合は、専門家組合の中で資格の有益性を演出することによって一方的に治療利権を守って来ているのであります。つまり経済学の一般均衡理論と等しく、不特定多数の評価によって優れた精神科医が選ばているかのように思わせながら、先行所有権の囲い込み優位のような権限体制の歴史を覆い隠してきているのであります。



もしこうした間抜けなオーストリア学派に染まりきった今日の日本の状況から脱却したいと思うならば、後継者であるハイエクに学ぶのが賢明であろうとアドバイスしておきましょう。経済学分野についてはさておき、ハイエクの社会観や歴史観を取り入れ始めている点が重要となります。

ハイエクは【積極的自由】と【消極的自由】という二つの自由観に触れています。それはイタリアのルッジェロ 「ヨーロッパ自由主義思想史」1927? の【〜からの自由】と【〜への自由】を経て、バーリン 「二つの自由概念」1958 から広まったものなのですが、この二つの自由観こそが、再度歴史主義への方向へ復帰させる基礎を含んでいるのであります。

イギリスが消極的自由観の文化であるのにたいして、他のアメリカ、フランス、ドイツなどのほとんどが積極的自由観なのです。帰結結果のみを述べますが、ウェーバーが求めていた資本主義を興した精神に消極的自由観も働いていたことを示すことによって、歴史主義の領域が現れるのです。

全くハイエクが消極的自由を採用したのは賢明でありました。なぜならメンガーの限界効用理論やシュンペーターイノベーション理論が歴史主義を追いやったのは、逆の積極的自由観の方を基本としていたからです。あるいは消極的自由観が法の実定性 (人為性) を監視追求するのに比べて、積極的自由観は都合よく自然性や必然的実定性と見せかける傾向にあると言ってもよいでしょう。

ともあれハイエクは、経済学にたいする歴史学社会学の領域を、二つの自由観によって示唆し残してくれたのである。



続く